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早稲田大学と日本財団「社会的養育システムの実現に向けた国内初共同プロジェクト発足」 [読書記録・日記]

研究所員として所属している早稲田大学社会的養育研究所が日本財団と共同プロジェクトを発足し、プレスリリースが出ました。
https://www.waseda.jp/top/news/69843?fbclid=IwAR2ssPpXEaqUiHIbohvw70aii5-OaqDfWe_-nNVcpACL0mPFAXbR3oeekvo

主として実親のもとで暮らすことのできない子どのの社会的養育について書かれていますが、
「「いっしょに生きてくれる人」を必要としている子どもは、社会的養護の子どもに限らず、家族と暮らしている子どもの中にも多く存在していると考えられます。その声(ニーズ)に応える地域の養育体制づくりは、他の多くの子どもが安心と希望を取り戻すことも可能にします。」
という部分も大切だと思います。

以下は冒頭の抜粋です。
「早大は、2020年4月に早稲田大学総合研究機構に『社会的養育研究所』を設置し、日本財団は最大5年の計画で資金援助を提供することで、本プロジェクトを実施していきます。全国に実親のもとで暮らすことができない子どもは4万5千人いると言われています。そのうち約8割の子どもは施設で暮らしていますが、諸外国においては特に乳幼児について里親等の家庭養育が中心とされています。わが国においてもその流れを受け、2016年に児童福祉法が改正され家庭養育の優先が原則となり、2017年にはその理念の実現に向けた工程を示した「新しい社会的養育ビジョン」が発表されました。本プロジェクトは、全ての子どもに最善の利益を保障する社会的養育システムを実現することを大きな目的として、以下に取り組みます。(後略)」

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田口茂『現象学という思考』 [読書記録・日記]

お盆中は少し実験をして分析をして、そのあとは夏バテで結構ぐったり過ごしてしまいました。
読みたかった本はたくさんあったけれど、あまりたくさん読めなかった。勉強もしたかったのだけれど全くできず、あの原稿も終わってないしな...。まあ仕方ないので、お盆明けから夏バテを緩和しつつ楽しく進める方法を考えよう。

そんななか、田口先生の『現象学という思考』はなんとか読み終わりました。
特に、後半の「自我」について論じた部分はとても興味があるところで、楽しかった。ただ、夏バテ中で一部意識が薄かったので、近日中にもう一度読みたい。

『〈現実〉とは何か』の第四章にも「自己」の話があり、その置き換え可能性をどう考えたら良いのか、難しいながら面白い予感のするところだった。ただ、なぜ私たちは「置き換え可能性」を感じてしまうのか、という点は『〈現実〉とは何か』では詳しく論じられていなかったように思う。
『現象学という思考』の第五章から七章を読んで、その点の理解が少し進んだように感じた。自我と自己は少し違うのかもしれないけど。

まだ、理解が浅く、そして意識が薄かったところの記憶も薄いのだが、ここで論じられている「自我」は、私には一つのパースペクティブのように感じた。「ここ」から見ているという視線の出所、ある一つの場所から見ているように情報を編集するその視点の根元が、「自我」として設定されている。自我というと、なんとなく人格的なものを思い浮かべてしまうけれど、私が感じたのは、そういった“人間的”なものではなく、もっと機能的なもの。予測をするための機能のようなもの。
そうして(だから)、そのような機能としての自我は、はじめから「この私」に対応して、「この一つ」の形をとっているのではなくて、そのような機能の塊として「一つ」のまとまりとなる。私に似ている身体を持つ他者は、その予測を裏切らないかぎり、自我の一部になりうるが、予測を裏切る(たとえば親の右手を挙げようと思ったのに、そのように思っただけでは自分の腕のようには上がらないとか)ことで、自我から区別される。そして、同時に、そのような形で、予測できるものとできないものの区別によって、「自我」が一つのまとまりになる(予測性に差異がなければ自我は地と図のように浮かび上がらない)。
この意味で、自我と他者は、対の両極として存在する(p.230あたり)。対という媒介がまずあって、自我が生まれる。

こう考えてくると、第五章「自我ー諸現象のゼロ変換」について、もう少し考えてみたくなる。
例えば、p.185にある例で、目覚めた私は眠る前の私と距離なしで重なり合う、とある。確かに、機能の内容としては、一つのパースペクティブ、編集の機能としては、同じものかもしれない。
しかし、自我と他者が対の両極として存在したからこそ、“自我”のまとまりが形成されるという観点から改めて考えると、少し“自我”の意味が揺らいでいるように感じる。むしろ、私は常に時間的に変化して、時空間的に異なる複数の自我と対をなし続けているようなイメージがある。私の自我が私の自我自身と対をなし続けることで、その場・瞬間の自我が一つのまとまりとなっているようなイメージ。でも、まだわからない。まだ、整合的に説明できない。多分、他者の方が鍵なのかもしれない。このあたりがわかると、重ね合わせとか、置き換えの話が、もっとわかる気がする。
いずれにしても、近いうちに再読したい。


現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

  • 作者: 田口 茂
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/12/11
  • メディア: 単行本



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