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不定元と現実感:物語読書における多義性と現実感・熱中 [読書記録・日記]

西郷・田口『〈現実〉とは何か』を再読していたので、自分の研究と関連づけて考えた。

この本では、どのように観測するか(問うか)によって現実の現れ(たとえば粒子なのか場なのか)が変化することが現実の本質であることや、どのように観測するかはその観測から見出される法則に書ききれない(自由意志)の問題が議論されていると思う。

一見、どのように観測するかで現実の現れが変化することはごく当たり前のように思う。しかし、私が思うのは、この本を理解できるかは、問い方によって現れが変わる「不定元」という性質が、現実の必要条件であると思えるか。つまり積極的に「不定元」を認められるか、にかかっていると思う。換言すれば、もしあなたが、現実を作るとしたら、「不定元」をその構造の特徴としていれるか。

文章理解では、解釈学的循環や比喩表現など、多義的な構造が多くある。文学作品では、どちらかの意味をいったんは(表面上)取らないと理解ができないが、本質的にはそれらの意味の重ね合わせが理解であったりもする。私は、これらの多義的な条件下で、何かの観点を選びその観点からどれかの意味を選ぶ、という行為が現実感や熱中を増す可能性があると思う。実際、現在の研究も、文脈が変わる際に熱中度が上がるのではないか、という仮説から始まっている。文脈変化のときというのは、多義性があがる部分であり、読者が選択をするときだから、こういった多義性の構造が熱中や現実感に本質的であることと整合的である。

一方、現代の文章は「簡略に」「意味に曖昧さがないように」書くように求められることが多い。『デジタルで読む脳 x 紙の本で読む脳』で 書かれていたように、読者も短く多義性の低い文章しか読めなくなっている。そのことが循環的により読書に熱中できなくなっているのかもしれない。

VR技術においても、不定さはむしろ削減される方向に進んできたように感じる(詳しくないけれど)。フィードバックやインタラクションの構造が、結果的に不定元的な構造を持つのかもしれないが、おそらく設計思想としては、より曖昧さのないものを作り込む方向が主流だったのではないだろうか。たとえば、錯視が見えるような不良設定問題を、積極的にVRに現実感を増すために入れるとはあまり思えない。VRを設計するときに、その環境とインタフェースに不定元を入れようと思えるかが、この書籍に対する態度の分水嶺なのかもしれない。

もしこの不定元が現実感に本質的であるならば、それはなぜだろうか?わからないけれど、生物が、ずっと不良設定問題を解こうとしてきたせいだろうか?そのような問題を解くように、作られている。解くことが、現実の一部になっている。

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