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ゆっくり読むということ、多義性にとどまること [読書記録・日記]

諸々あって『〈現実〉とは何か』を読み返しつつ、冨山先生の『始まりの知』を読んでいます。
これらの本を読んでいて思うのは、すぐに一つに決めないことに持ちこたえる、解釈多様性や多義性を引き受ける、そこから新しいことに気がついたり、別の理解に至ったりするのではないか、その重ね合わせというか、多義的な場所にとどまることが重要なのではないか、ということでした。

私のいまやっている研究は、主に解釈学的循環と比喩理解に関わるもので、実は両方とも、この多義性や複数の理解の重ね合わせに関わる。

解釈学的循環は(いくつかの意味があるけれど)、文の意味理解によって文章全体の意味が理解される一方で、文章全体の意図(文脈など)がわからないと各文の意味もわからないという、理解の循環的構造を指す。これは、文にも文章全体にも多義性があるから起こる。推理小説などでいわゆる「どんでん返し」によって、物語全体の意味が変わるように思えるのも、この多義性から来ていると思う。

比喩も、基本的には意味の重ね合わせと見れる。「青い女」と言うと、本当に青い(顔色や服などが)女の可能性もあれば、落ち着いたクールな女を意味する可能性もある。これまでの比喩研究は、まず、この表現が字義通り(本当に青い)か比喩かを区別したりもしたが、実際には、私たちはこの表現から両方を感じ取り、その意味の重ね合わせのように理解すると思う。たとえば、もし本当に青い女だったとしても、こう表現されると、その女性にクールな印象も感じる。比喩的な意味だったとしても、実際に青い感じを受ける。とくに、文学作品では、こういった意味の重ね合わせを用いて、表現がなされることが多いように思う。

一方、『デジタルで読む脳 x 紙の本で読む脳』で言及されていた「ゆっくり読めない脳」はこういった多義性にとどまることが苦手なのではないだろうか。すぐに答えが欲しい。白黒はっきりして欲しい。一意に定まらない文・文章は、複数の可能性を担保しながら読まないといけない分、早く読めない。無理に早く読もうとすると、その多義性を一つに押し込めることになって、理解も楽しみも見出せない。

私たちが、新しいことを見出すのは、わからない場所、知っていることと知らないことが混ざるような場所、どちらとも言えないような場所なのではないか。わからないけれど、新しいことがある予感がする。そういう感覚が、理解の手前にあるように思う。わからないけれど。

すこしだけ追記
結局のところ、わかってしまいたい、という欲求が、理解を阻む。ダークルームにとどまるか、外に出て探索するか。不確定なものを認められるか、つまり想像できるか。



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