SSブログ

十二日目 ヘミングウェイ『移動祝祭日』 [読書記録・日記]

十二日目はヘミングウェイ『移動祝祭日』。

----(引用)----
私のやっていることは、自由意志によるものであり、やり方がばかげているだけなのだ。一食ぬかすよりは、大きなパンのひと切れを買って、食べればよかったのだ。茶色のきれいなパンの皮だって味わえるんだ。
(中略)
ビールはたいへん冷たく、おいしく飲めた。油いための馬鈴薯は、形がくずれず、汁で味がつけられ、オリーヴ油にひたしてしめらせた。最初に大きくグッとビールをひと飲みしてから、私は極めてゆっくり飲んだり食べたりした。油いための馬鈴薯がなくなってしまうと、もう一皿と、セルヴラを注文した。これは、一種のソーセージで、どっしりした幅広いフランクフルト・ソーセージを二つに裂いて、特別なカラシのソースをかけたようなものだ。
----(岩波書店、pp.89-90、「飢えは良い修行だった」)----

『移動祝祭日』はヘミングウェイが過去にパリにいたときのことを書いた自叙伝的オムニバス作品。事実上の遺作。
パリのヘミングウェイはお金がなかったようで、昼食代を浮かすため、妻には友人と食べると行って外に出て、そして何も食べずに我慢しようとしていた。けれど、それでお腹がすいているときにお金がない現状の不満を人に言ってしまったあとの、この「一食ぬかすよりは、大きなパンのひと切れを買って、食べればよかったのだ。」という文がとても好き。ちなみにこのあと、さらにおかわりする。パリでの食事はどれも美味しそう。
この話「飢えは良い修行だった」の文章はこのあとも素敵で

----(引用)----
そのストーリーの本当の結末、つまり、老人が首を吊って死んだことは、省いてあった。これは、私の新しい理論によって省かれたもので、その理論というのは、もしきみが省いたことを自覚しており、その省かれた部分がストーリーの力を強め、人びとにかれらが理解する以上のものを感じさせる場合には、何でも省いていい、というのである。
 ところで、と私は考えた。今、私はストーリーを省略した形で書いたから、皆はそれを理解しないだろう。それについてはあまり疑問の余地はない。それらのストーリーに対する需要のないことも、非常に確実だ。でも、人がいつも絵画の場合にすると同じふうに、いつか理解するだろう。ただ時間がかかるだけであり、また自信をもちさえすればいいことなのだ。
----(pp.93-94、「飢えは良い修行だった」)----

このときヘミングウェイは、妻の悪意のない不慮によって初期の原稿を全て紛失され、くわえて定期的な収入源だった新聞社の仕事をやめており、しかもスランプで書けなかった。その状態で「書く」ということと「空腹(貧乏)」ということについて書いている。事後的に書かれたものだし、どの程度フィクションなのかわからないけれど。
この本は、ヘミングウェイと妻とのやりとりも楽しい。

----(引用)----
「そうとも。足の向くように歩いていって、どこか新しいカフェへ寄ろう。ぼくたちにも知った顔がなく、向こうもこちらのことを知らないカフェで一杯飲もう」
「二杯飲んだっていいわ」
「それから、どこかで食事といこう」
「だめよ。貸本文庫に支払いのあるのを忘れちゃだめよ」
「じゃ、うちへもどって、ここで食べよう。うまい食事をして、消費組合で売っているぶどう酒ボーヌを飲もうじゃないか。そら、そこの窓から見えるだろう。ボーヌの値段が窓ガラスに書いてあるよ。そのあとは、本を読み、それから床へ入って仲好くするのさ」
「あたしたち、ほかの人は絶対に好きにならないのよ」
「そうだよ、絶対に」
----(pp.45-46、「シェイクスピア書店」)----

しかし最後の話で、たぶんヘミングウェイは別の女性に乗り換えるのでした。


(ちなみにフィッツジェラルドの節もあり、ヘミングウェイがまったく大人しく思えるくらいにめちゃくちゃなフィッツジェラルドの記述も面白かった記憶があります。
もともと『デミアン』の次は別の本を考えていたんだけど、気が変わったのでパリの美味しい話にしました。)


移動祝祭日 (同時代ライブラリー)

移動祝祭日 (同時代ライブラリー)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1990/07/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



nice!(0)  コメント(0)